阿土と氷児

簡素な平民の衣装に身を包んだ高長恭は、痛んだ部屋の修理をしながら浮き足立っていた。
婚礼のしきたりの煩わしさから雪舞を解放してやるために、彼女を蘭陵王府から連れ出してこの粗末な庵【いおり】に連れてきた。ここでしばしの休息を得させてやり、馴れない環境での負担を少しでも軽くしてやりたいと思ってのことだった。
なれど実はこの自由を切望していたのは、他でもない彼自身だったのだ。口うるさい侍従やお節介な弟王の目の届かぬところで、近いうち花嫁として迎える愛しい娘御と二人きり。かように微笑ましいことがあるだろうか。
斉国第四王子や蘭陵王といった堅苦しい肩書きはひとまず置いておくこととしよう。自分は楊雪舞という名の女人を愛する、一人の男にすぎない。そしてこの庵においては高長恭という名すら捨て、ただの「阿土」として生活する。雪舞も、巫族の天女でも蘭陵王妃でもなく、「氷児」という名を与えられた普通の娘でしかない。
王族であろうが、貧民であろうが、人を愛する心に虚飾はない。とはいえ、時には身分が鎧となって、まことの姿を隠してしまう時もある。
彼はありのままの心で彼女と接する機会がほしかった。

庭の畑に出てみると、氷児が鼻歌を歌いながら土に柄杓で水を撒いていた。その背中に音を立てずにそろりそろりと近づいてみる。まだ気付かない。調子づいた阿土は腕を大きく広げて、後ろから彼女を抱き竦めた。
「きゃっ!」
氷児の手から水桶と柄杓が落ちた。土にたまった水が夕日を映して赤く輝いた。唇をとがらせて振り返る氷児に、阿土が笑いを堪えながらたずねる。
「驚いた?」
「当たり前じゃない!もうっ、こんな悪ふざけをしてーー」
「きみがかまってくれないから、こちらから振り向かせるしかないだろう?」
阿土の甘い囁きに、氷児はぱっと頬を染めた。
「……だって、ちゃんと水をあげないと野菜が枯れてしまうもの」
「きみが傍にいなければ、私の方こそ干からびてしまうよ」
彼は氷児の首筋に顔を埋めた。氷児はこそばゆくて身を捩る。

「で、殿下、くすぐったいわ!」
「『殿下』とは誰のこと?」
「あっ、じゃなくて……阿土!悪ふざけはよしてちょうだい!」
「いやだ。つれないきみが約束の証をくれるまで、ずっとこうしている」
「約束の証って、な、何の?」
阿土は優しく微笑んだ。氷児のすべらかな頬をそっと撫でる。
「一生、私の傍から離れない約束」
「……その約束なら、もうしたも同然じゃない」
氷児がぼそりと呟くと、彼はとぼけた。
「約束の証をくれないのなら、やはりこのA霸數學まま離すわけにはいかないな」
かろやかな口笛が聞こえて、氷児ははっと門のところを見た。仲睦まじい二人の様子を、駕籠を背負った子供達がにやにや笑いながら見物していた。

「仲がいいね~!」
「うちの父ちゃん母ちゃんよりも仲良しだ~!」
「あなた達っ、おうちに帰りなさい!」
顔を真っ赤にした氷児が拳を振り上げると、子供達はきゃあきゃあ笑いながら走り去っていった。
火照る頬を手団扇で扇ぎながら氷児は阿土を見上げた。阿土は悪戯っぽく微笑んでいる。ついに氷児がおれた。
「ーーわかったわ。約束の証として、何をあげればよいの?」
阿土は嬉しそうに目を輝かせた。そして、人差し指を氷児のDream beauty pro 好唔好さくらんぼのような唇に添えた。
「きみからの口づけ」
とたんに氷児の歯ががぶりと彼の指を噛んだ。阿土は目を見開く。
「な、なにをする?」
「おひほひほ!」
どうやら、お仕置きよ!と言いたいらしい。がっかりした阿土は眉を八の字に下げた。
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